2014–09–15 (Mon) 15:21
数日前NHKを見ているとき、NHKスペシャルで臨死体験についてをやるというCMを見てからかなり関心をもっていた。
何故ならNHKだけあって科学的にやってくれる事間違いないので。
この『臨死体験』という現象又は話を完全否定してはいないが、多くが非科学的で、尚且つそれぞれ個人の解釈し放題だから(これだけ科学が進歩してるというのに)、「科学的根拠を持って説明してくれるならば聞きたい」ただそれだけだった。
が、とても内容のあり興味深い番組でした。
結論、臨死体験(神秘体験)を作り出す役割を果たす物が存在しているが、何故そんな装置が人間に備わっているのかは不明で、その答えはそれぞれ個人の信念に委ねる という話だった。
脳の奥にある『辺縁系』というものがどういう役割を果たしているといった内容について、私は漠然とした知識しかなかったので随分勉強になった。
『辺縁系』も沢山の役割を果たしているのだが、今回はこの『臨死体験』がテーマなので、これについての役割を書きますね。
その前に・・・
今まで心肺停止すると同時に脳波も止まるといったデータがあり、これを多くの科学者は右へ習えしていたんだけど、
実際は停止してるように見える脳波(横ばいの脳波)を拡大すると実は微小ながらに動いているのである。
(脳に直接器具を取り付けられて筋弛緩剤を打たれ心配停止してゆくマウス君は可哀想過ぎて直視しがたい)
この微小ながらに活動をしている時間は数十秒らしい。
で、仮説として、もし死後臨死体験といった神秘体験をするならばこの死後数十秒であろうという話です。
確かに脳が活動をしているから。
話はここから。
先ず辺縁系は睡眠と夢という現象の中心的役割を担っていて、辺縁系は死の間際に眠りのスイッチを入れると同時に覚醒のスイッチも入れ、それにより極めて浅い眠りの状態になり、目を覚ましながら見る白昼夢のような状態を作り、更に辺縁系は神経物質を大量に放出し、人を幸福感で満たすのだと。
※番組でのその説明に使われたCG映像では脳みそ全体をその神経物質が被った。あれならさぞかしどえらい幸福感で人は包まれるであろう、そう感じた。
こうして死の間際幸福感に満たされそれが現実のものと信じてやまないような強烈な体験をするという。
そして今回出ていた教授は臨死体験(神秘体験)を人間が長い進化の過程で獲得した本能に近い現象でないかと考えている。
そして臨死体験(神秘体験)をしやすい人は夢を見やすい脳をもっていると。
それと辺縁系は脳の中で歴史は古く、進化の初期段階で生まれた部分で、これがまた興味深い。
ということはこの臨死体験(神秘体験)が現実に起こっている現象ならば、こういう能力は最初から備わっていたものと仮説出来る。
死は人間の最大の恐怖とよく言うが、これだけ発達した脳を持つ人間故、死に際に恐怖を取り除く機能を持っていても不思議では無い。
事実死に際に神経物質の大量放出で幸福感で満たすところなんてね。
けど、一般的に言う臨死体験→川・花園・全知全能の神・眩い光といった映像(体験)は皆一律では無いと思う。
幸福感の象徴といったものは個人で違うし、文化の違いや教養の違いなんでも違う要素が五万とあるのだから、それぞれで見る映像(体験)も違うはず。
全知全能の神だ故人が迎えに来たなど、こういったものは群れで生きる生物な人間故生まれてくる映像(体験)だと思って疑わない。
生物学的にも人間は群れで生きる生物であるのは本当だもの。
だって脳の構造から『群れで生きる』ようできているから(説明は面倒なので・略)。
脳が裏付けている。
そう、だから小規模だろうと大規模だろうと、上層だろうと下層だろうと、腐ってようと破綻してようと、何かに所属している事で人間はいくらか安心を買っている。
腐っていようが破綻してようが閉塞してようが、共同体であるという安心を買っている。
群れることなく生きる事は生物学上反した行為であり、これは『自由』という名の『孤独』に過ぎず、
この『孤独』の側面をたまに度外視した『閉塞の中で安心を買っている人』は『自由』というワードを羨む。
が、絶対選択しない。
羨みながらそれを選択しないのは、『大きな孤独』も知っているから。
『自由』と言っても現実はその国の定める法や地域の条例、貨幣制度、能力、血縁などにより、完全な自由など無に等しい。
とても中途半端な自由・孤独であると、私は思う。
と、途中途中他事をしながら~のブログ書きをしてたので、何が書きたかったのか分からなくなってきた(笑い。
自由を羨み欲しながら選択出来ず、その消化出来ない感情はリスクを減らした発散を選択する。
その一つが私の所でもある、性癖あっての物だけど。
そうでない人も居るからこうしてやってられるというのも一理あるが・・・。
この先の私の人生も孤独(自由)であることは変わらない(変われない)ので、もっと孤独に慣れ平気に成るまで孤独を追究しようと居直りはじめたところだ。